最近気になる人には「ツイッターをやりませんか?」と誘うようになってきた。ツイッターが素晴らしいメディアであると確信したからだ。それは他のソーシャルメディアにはない魅力があり、自己と社会(ソーシャル)を築くに、多大な影響を持つと感じるようになってきたからである。
序)
ツイッターで個人のアカウントを公開してからようやく一年になる。とは言うものの、自分なりの使い方が形成されたのはここ数ヶ月と言ってもいい。2010年10月にこのブログを書き始め、11月29日にソーシャルメディアの講義(イーンスパイヤ 株. 横田秀珠氏)を受けてからの変革だ。
忘れもしない横田氏の講義の序段の三つの言葉が印象深い。
- 気になる存在がいるかどうか?
- 一方通行のコミュニティ。
- ツイートは、仕事、家族、個人、社会の組み合わせ(人格を決定)
1.気になる存在がいるかどうか?
横田氏は気になる人がいなければツイッターは面白くない。つまり自分が気になる人をフォローすること(ツイッター上の自分のタイムラインに、他人のツイートを読み込むこと)がツイッターの正しい使い方であると言いたかったのであろう。
私はその時はいないと答えた。本当は、見つける力が乏しい が正しかった。
2.一方通行のコミュニティ
後に横田氏は、以下のようにツイートした。
「フォローされたらフォローし返すという暗黙のルールがある。俺はそうとは思わない。それがツイッターを駄目にする」
この言葉を頂いてさらに、私は自分のタイムラインを大切にするようになった。(フォローを管理)要するに今まさに気にならない相手はフォローしない。ということだ。フォロー返しがマナーではない。そう思う理由は、フォローだけして全く読まずに読み飛ばすほうがよっぽどマナーに欠ける行為。私はフォローしてくれた方のプロフィール、webサイト、ツイートを必ず確認。そして、タイムラインには置かない場合でも、好意のかたは必ずリストでフォローするし、DM(ダイレクトメッセージ)やリツイート(返信)をする。
つまり、フォローリフォローの関係ではなく、私が気になる人、私を気になる人の関係が連鎖する形を誇示することに決めた。
3.ツイートは、仕事、家族、個人、社会の組み合わせ
個人アカウントのツイートは当然個人の意思でツイート内容を決めてかまわない。
誰に向かって、何をツイートしようが法規制など無いに等しいのだが、ホームページやブログと違うツイッターのそれは、あらゆる自分を出していい。と師は言いたかったのだと思う。かつ、人格を決めてツイートしよう。と言われたように記憶している。
要するに、プライベートの自分、会社の自分、社会の自分が混在できる唯一のメディアとして成り立つツイッターの素晴らしさ。であると。
フォローについて考える事)
以上のような事を踏まえて船出した私のツイッターライフだが、使いこんでいくうちに、あることに気づき始めた。
「ツイッターというのは、元来持つ素晴らしさと裏腹に、使われ方の殆どが幻想なのではないか?」
無作為にアカウントを覗いて行くと、「食ってる」「ねる」「起きた」の類いと、個人あてのツイートで埋め尽くされているアカウントがある。(もちろん悪くない)驚くのは、プロフィールに書かれている単語と殆ど無関係な内容のそれをフォローしている人が何百人もいることがよくあるのだ。よく見れば、同等の数字のフォロー、あるいはそれ以上のフォローをしているのである。これは相互フォローあるいはそれに近いものの結果ではないか?
一方、殆どフォローしていないアカウントなのに、驚くべき桁数のフォロワーを集めているアカウントもある。
facebookの友達にも共通して言えるのだが、これらのフォロワーがどこまでソーシャル(社会)を形成し得るのか疑問に思えるのだ。本当に興味を持ってフォローしているとすれば、相手の一挙手一投足。そこまでいかずとも、生活の間(ま)と、たまに挿入されるメッセージを読み取りたい。と思うことだろう。私はその傾向だ。
つまり、たかが食った。寝た。のツイートであっても、その人の大切なメッセージの一部として受け入れられるフォロー関係なのだ。
そうだとしたら、フォロワーを数百、数千と集めているアカウントが発する言葉がまさにそうであったとしたら、よほど社会に影響を与えているだろうと感じるのだ。
ところが、どうもそうでも無いように思えるのだが・・?
例えばある人のアカウントのフォロワーが10,000人いたとする。その人が「今の私にとって、日本はなんだか気分がわるい」とツイートしたら、本来「何があったの?」「なんで?」のリツイートの嵐となるはずであるが、そうはならない様子がある。すると、何のためのフォローか?となる。
一つ事例。つい最近リツイートでコメントした、とあるサイトの反響、盛り上がりが極めて小さいのだ。4千人弱のフォロワーを持ちながらだ。この数字あってにわかに信じがたい。
折り込み広告ならまだしも、個人が意思を持ってフォローしたにも関わらず。これは驚愕。
「フォロー」という機能をあまりに誤解して使っていないか?と思う次第。
ツイッターを育て、そして成長したい私)
横田氏が言った「一方通行のコミュニティ」は非常に私を納得させる。
つまり、ツイッターとは、自分がフォローしている人のメッセージを取り込み、自分のフィルターを通して他人(や社会)へスルーしていることだと思うのだ。お互いの会話によってコミュニケーションしていること とは全く別物の。
よって、自分がフォロワー(や社会)に少しでも良い影響を与える(役立てる)存在でありたい。と願うなら、間違いなく自分のツイートが、フォロワーさんのタイムラインで「恥ずかしい部分」となってはならない。と戒める。それは、大切な私のフォロワーさんのフィルターを詰まらせたりせず、快適に働かせてあげることでもあると思うのだ。
同時に、フォロワーのそこで「知を形成するストリームの閃光」となりたい。と願うのである。
さて、ツイッターを深くやり始めて、たった2ヶ月だが非常に多くを学ぶ貴重な時間だった。まだまだ欲が尽きることは無く、私というフィルタはさらに素敵なツイートを求めているのだ。
そして、言葉が通える素晴らしい出会いがあることを期待するが、相互フォローを助長する習慣が色濃くあるツイッターを成熟させるべく。また、自分を良い出会いに導くためにも、まだまだ自身の成長が必要であると思う。
さらに私は、私のタイムラインで、素晴らしいメッセージを私に発していてくださる方々に敬意を表すると共に、今後の自分の戒めとするため、ツイート(つぶやき)を森の木に見立て、こうつぶやいてみた。
ある人はタイムラインを「知の杜」に仕立てあげ、またある人は「恥の盛り」に。私は前者をフォローし、私をフォローすると後者になる!?
『自分の知を高めるアカウントをフォローしよう。そして、フォロワーのタイムラインを恥ずかしいものにしないよう自分のフィルタを確かなものにしよう。自分のツイートが、ソーシャルメディアのストリームの石として美しい川に流れ着きますように。』と。
(この記事は、ねおかんぱーにゅ南部ひとコーナーと、大進化の両方に投稿しました)
0 件のコメント:
コメントを投稿